1783年(天命3年)旧暦7月8日、前日からの鳴動は鳴り止まず、夜が明けても空一面黒煙に包まれ夜のように暗い。 午前11時、浅間山は光ったかと思う瞬間、大音響とともに真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上げ、大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。土石は溶岩流に削り取られ土石なだれとして北へ流れ、家屋・人々・家畜などを飲み込みながら吾妻川に落ちた。たった十数分の短い出来事。鎌原村の被害は全18戸が流失、死者477人、死牛馬165頭、生存者はわずか93人のみという大災害に見舞われた。 この時代は近代的な経済政策を先取りした、世に言う「田沼時代」であったが、この大噴火と江戸の大火に加えて前代未聞の「天明の大飢饉」がおき、あえなく田沼意次は失脚した。 |
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